島本和彦主催[HOOP HYSTERIA]バスケットボールファンクラブ
吉川 哲彦の「だむだむ探検隊」

bjホームタウンレポート埼玉編・祝10周年!!〔2006.8.1〕

2ndシーズンに向けて着々と準備が進んでいるbjリーグ。地域密着が大前提ということで、どのチームも本拠を置く県内で20試合のホームゲームを戦うわけです。僕は昨シーズン、どうにか全6チームのホームゲームを見ることができました。来たるシーズンも8チーム全てのホームゲームを見るつもりです。
で、昨シーズン僕が最も多く足を運んだのは埼玉でした。メイン会場の所沢市民体育館は僕の自宅から45分程度で行けるとあって、他の会場に比べると取材に行く機会が多く、春日部での2試合とさいたま市での1試合を含めて実に11試合も見てしまいました。
そんなわけで、今回は埼玉ブロンコスのホームゲームを振り返ってみます。

埼玉ブロンコスのそもそもの始まりは10年前でした。旧日本リーグ所属のアンフィニ東京が廃部となり、所沢を拠点とした市民球団として生まれ変わったのがスタートです。中心となって立ち上げたのはアンフィニOBの成田俊彦氏(現GM)。その後実業団リーグを勝ち上がって、市民チームでありながら特例でJBLに参戦。やがて新潟アルビレックスと手を組んでbjリーグ参画となるわけです。
JBL時代は資金不足で宣伝活動もままならなかったのだと思います。埼玉県内での試合も年々増やしていったのですが、集客面ではかなり苦労していました。JBL最終年の04−05シーズン、地元所沢での日本リーグ(2部)セミファイナルですら、集まった観衆は数百人にすぎなかったのです。機構に金を吸い上げられてチームには還元されないJBLのシステムでは限界があったわけです。
いざプロリーグ参戦となると、チームとしても気合いが入っている様子がうかがえました。一旦全選手を手放し、JBL日本リーグからbjに挑戦した選手を中心に編成し直しました。前年から残ったのは安藤毅と中西恒彦の2人だけ。その結果、日本人戦力はbjでも新潟に次ぐレベルになり、そこに元NBAのデービッド・ベンワー(僕は未だにベノワと言ってしまいます)も加わって戦力は整った……はずでした。
開幕直前になると、所沢駅前と新所沢駅(体育館最寄り)前の商店街に、緑色のバナーが掲げられました。体育館までの通り道でも店にポスターが貼られていたり、試合当日には新所沢駅の改札前でスタッフがビラを配ったり、できる範囲で告知はしているように思われました。また、地元埼玉で世界選手権が行われるとあって、ブロンコスはそのPR活動も行いました(bjを敵視している日本協会はこの事実をどう考えているのでしょうか)。
そしてホーム開幕戦、所沢市民体育館には2600人が集まりました。とはいえこれは、杉山清貴が来場してサポートソング「THIS IS LIFE」を歌ったことが大きかったかもしれません。実際これは僕も感動しました。しかしその後は低迷します。せっかくホーム開幕戦で新潟に勝利(チーム創設以来初)したにもかかわらず、そのお客さんを引きつけるまでには至らず。1000人を切るゲームが続き、他チームに後れを取りました。 その状況に変化に見え始めたのは、岐津知平氏をスタッフに招聘したことが理由に挙げられます。彼は、新潟で現場マネージャーからGM補佐まであらゆる仕事をこなした人。チケットのさばき方からスポーツドリンクの作り方まで、何でも知っているのです。彼以上にプロチーム運営のノウハウを持っている人物は、日本バスケ界にはいないかもしれません。
そんな彼の努力もあって、僕が見に行く度に観客数は増えていきました。量だけでなく、質も徐々に変化したように見受けられます。静かに見ている人がほとんどだったのが、ワンプレイごとに一喜一憂するようになったと感じました。成田氏によれば、ブースター同士のつながりもどんどん広がっているとのこと。チームのキャッチフレーズ「絆」が明確な形になってきているみたいですね。

客席の様子が変わってきたのは、チームの上昇も大きな理由の一つです。
仙台戦で2勝目を挙げた後、泥沼の連敗街道にはまってしまったブロンコス。ベンワーの戦線離脱が大きな痛手だったのは言うまでもないですが、戦術が機能していなかったり選手同士のコミュニケーションが不足していたり、いろいろと問題があったのも事実。コーチからプレイヤーに復帰したチャールズ・ジョンソンも年齢には勝てませんでした。
そこで登場するのが庄司和広選手。解散したJBL福岡からbjに乗り込んできた、元日本代表の実力者です。そして、プロの先駆者・新潟で5シーズンを過ごしてきたプレイヤーでもあります。ついでに言うと、岐津氏とは北陸高校の同期で、大和証券と新潟でも共に戦った腐れ縁。その庄司が、チームを少しずつ変えていったのです。
彼はまず、チームに専属通訳を連れてきました。それまで通訳を務めていたのは青野和人選手。練習でも試合でもゼーゼー言いながら必死に外国人コーチの言葉を訳していたわけですが、通訳業から解放された青野選手のパフォーマンスは見違えて良くなりました。プレイに集中できる環境を選手に与えることは、これほどまでに大切なことなのだということです。
コート上では、チームプレイの重要性を自らのプレイで示しました。持ち前のオフェンス力を発揮するのは4Qだけ。3Qまでは、他の4人が少しでも確率の良いシュートを打てるようにとパスを回していました。次第に、マーカス・トニーエルの1on1に頼りがちだったオフェンスはボールが動くようになり、外国人がボールを離さず強引にシュートに行ってミスという悪いパターンが減りました。
そして3月3日の仙台戦、4Q残り1分で6得点を挙げた庄司の活躍で連敗を19でストップ。その日1000人だった観客数が翌日は倍以上になりました。何より、勝利という結果が出たことは大きく、チームの雰囲気は変わりました。それまで出番に与えられなかった安藤毅が本来の力を発揮し始めスターターに定着、安齋竜三も入籍した日に大阪を破る立役者となりました。確実にチームは上向いたのです。
三木力雄テクニカルアドバイザーが「庄司効果は大きいですね。他の選手は彼から学ぶことが多かったと思いますよ」と語ったように、庄司のアドバイスやバスケに対する姿勢は、プロ1年目で決して経験豊富とは言えないメンバーに少なからず影響を与えたでしょう。

残念ながらbj初年度は最下位に終わったものの、庄司加入後の5勝で手応えを感じたチームは、ドラフト指名よりも既存選手のプロテクトを選びました。昨年とほぼ同じメンバーをOBの山根謙二氏に託し、走るバスケットで上位進出をうかがいます。就任会見当日の公開練習も前年に比べると非常に活気があり、若い選手がアグレッシブに走り回るスタイルになりそうです。
経験豊富な庄司やベンワーに加え、得点源のトニーエルとも無事に再契約。bj2年目の台風の目になることを期待して、所沢に足を運びたいと思います。



吉川哲彦(よしかわあきひこ)

1974年生まれ、東京都出身。
中学1年時はバスケ部に在籍したが、転校した先ではバスケ部に入らず。その後、バルセロナ五輪のドリームチームに触発されて大学でバスケ部(体育会系)に入部。3年時の関西リーグ4部準優勝&3部昇格が唯一の自慢というベンチウォーマー。
26歳の時、周囲の勧めもありフリーのスポーツライターに。一番最初の取材対象に新潟アルビレックスを選び、それ以来取材対象はほとんどがバスケ。カテゴリーを選ばず、ありとあらゆる現場に足を運ぶ日々。
「自分の文章が日本のバスケ界を変える一助になれば……」と秘かな野望を抱いている。
2005年、初の著作「オールドルーキー」(共著・阿部理)がHOOP HYSTERIAより刊行される。

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